夕刊フジ平成特選寄席

赤坂区民センターにて
立川らく八 「子ほめ」
立川談笑  「蝦蟇の油」
柳亭市馬  「掛け取り」
仲入り
林家彦いち 「にらみ合い」
立川志らく 「浜野矩隨」

前から2列目の席。
至近距離で見る談笑の体も顔もデカいこと。それだけに蝦蟇の油売りの迫力は満点。サラサラと流れるような華麗な口上というのではなく、ブツブツと途切れながらもメリハリの効いた説得力あふれる口上の趣。この人にはこういうリズムの方が合っていると感じる。もちろん談笑だから、当たり前には演らない。
「ちょいと触っただけで、ほれこの通り」の場面は二の腕に貼った赤いビニールテープを見せる。蝦蟇の油を塗って、テープをはがして「血がピタッと止まる。どうじゃ、お立会い」とお茶目な演出。酔っ払っての再演部分は「切れる。血がビュービュー噴出して白い骨が見える、お立会い」「面倒だから、手首を取る。で蝦蟇の油を塗って手首を乗せれば・・・落ちる」とスプラッターに。

彦いち「市馬師匠がまだ歌い続けてます」で客席を大いに沸かせる。「にらみ合い」は電車の中で遭遇した出来事を語るだけのことだが、彦いちの観察眼の鋭さが面白い。

志らく浜野は今年の1月に聴いたからほぼ1年ぶり。矩隨にはもともと極めて個性的な才能が備わっていたことを、若狭屋の小僧の一人語りの中で分からせる演出が前回聴いた時よりも、強まっているように感じた。その分、この噺のご都合主義的な部分が目立たなくなっているが、僕はややくどく感じた。
母親への形見として彫るだけで昨日までの下手糞が急に名人になるというこの噺の不自然さを演者が嫌っていることは了解しているし、そこで演者がどのような工夫をして、この噺を再生したかも理解しているつもりだ。ラストも母親が生き残るハッピーエンドにしてしまっては矩隨が本当の名人にはなれないはずだという演者のロジックにも共感する。ところが、そのロジックを、高座の上で、なぜ母親が死ななければならなかったのかという形で説明されるといささか違和感を覚える。そこまで説明しなくても、ちゃんと志らくさんの思いは伝わっていますよと言いたくなるのだ。
演者の解釈というのは、「あのセリフに、あの表情に、こんな思いが込められているんじゃないかなあ」と思いを巡らせられる程度が僕にはいい。でも、これは、僕が志らくの本やブログなどで彼の「浜野」に対する考えを知ってしまっているから起こる違和感なのかもしれない。彼の解釈が噺にどう反映されているかを逐一確認するような落語の聴き方はやっぱり不自然だもんな。初めて志らくでこの日の「浜野」を聴いた人は、「そうか浜野ってこんな解釈ができたんだ」と素直に感心しただろう。それを思うと、噺そのものを楽しむためには、演者のその噺に対する思いや解釈を、作品以外のところからあまり仕入れるべきではないのかもしれない。