朝日名人会

有楽町朝日ホールにて
三遊亭歌ぶと 「権助魚」
五街道弥助  「代書屋」
立川笑志   「茶の湯
立川志の輔  「三方一両損
仲入り
三遊亭遊雀  「宗論」
柳家小三治  「芝浜」

歌ぶとくんを初めて聴く。とても前座とは思えないしっかりとした高座。前座なんだから受けなくてもいいとは言い条、朝日名人会なんだから、元気がよければそれで良しともいかなかろう。その点でも適度な笑いを誘って上出来の開口一番。
「代書屋」はどうしても枝雀の強烈な爆笑編が頭にこびりついていて、ついそれと較べてしまう。弥助の端正な芸は、この馬鹿馬鹿しい上方出来の噺には合い難い印象を受けた。客(弥助の高座では坂東妻三郎という名)の能天気ぶりが弾け切らない。無口な引きこもりニート風の客と気難しい代書屋(転職コンサル)なんていう現代風改作もありかななどと、会の直前まで「若者を見殺しにする国」(赤木智弘著)を読んでいた筆者はくだらないことを考える。
笑志、真打昇進おめでとう。うれしさが滲み出ているような明るい「茶の湯」。
さすがは志の輔、「三方一両」の根源的弱点をバラしてしまう。
この噺、左官と大工、二人の江戸っ子の意地の張り合いと、その保護者と言うべきそれぞれの大家の男気を聞かせるだけの噺である。言い換えれば啖呵と喧嘩だけの噺。その後の大岡裁きの内容はどう考えたって下らない。「多かぁ食わねぇ」「たった一膳」の地口でスパーンと落とす気持ち良さは分かるが、このサゲだって本編とは全く無関係の取って付けたような印象が強い。
そこで志の輔が取った作戦は、なるほどこういうやり方もあるのかと目から鱗だった。自分の一両を元の三両に加え、二人に二両づつ渡せば三人が一両づつ損をするという決着法を説明する大岡越前。「どうじゃ。分かったかな」と言う問いに左官と大工は「分からねぇ」。再び噛んで含めるように説明するが、「どうもよく分かりません。あっしらが三両手にできるところを二両しか手にできないから一両の損と言うのは分かりますが、なんでお奉行様が一両出さなければならないんです? どうしてそこまでしてこっちに入って来ようとするのかが分からねぇ」と言う二人。正にその通り。付け加えた一両が公儀のお金だとしたら、税金の無駄使いとしか言いようがないし、越前のポケットマネーだとしても安易過ぎる決着法だ。そうした違和感をいっぺんに霧消させたのが越前の次のセリフだった。「わしが一両出さなければ、三方一両損にならぬではないか」「一晩寝ずに考えたのじゃぞ」「これは後世に残る名裁きなのじゃ」。
そう、志の輔は越前を正義の執行に命をかける男ではなく、人々の評判になる面白い判決を下すことに執着する俗物に描き直したのだ。もっと言えば、落語の大岡政談をすべて、この新しい越前像の中に吸収してやろうと思っているのかもしれない。「大工調べ」も「五貫裁き」も「小間物屋政談」も(志の輔は全部やるはずだ)、越前自ら御前吟味をするほどの事件ではない。それをわざわざ自分で裁こうとする越前はやはり、いかにも落語の登場人物らしい面白がり屋なのだ。大岡政談と言いながら、その実、最後に出てくる脇役でしかなかった越前を新解釈によって噺の主要人物に据えてしまった志の輔。これから僕は大岡政談を聞くたびに、面白い裁きをしたいだけの俗人越前をイメージしてしまいそうだ。
遊雀、軽い噺を軽く演じて乙。
小三治芝浜、当たり前のお茶としてはおいしいが、そればっかりだと福茶を飲みたくなる。長かったなぁ。