立川談春独演会「談春夏祭り」

神奈川県民ホールにて
立川春太 「子褒め」
立川談春 「茶碗の使者」
仲入り
立川談春 「蒟蒻問答」

「夏祭り」と銘打った休日の落語会、ならばと浴衣で出かけた。横浜駅での乗換えを面倒に感じ、市営地下鉄で関内駅まで行き、そこから徒歩。県民ホールの遠いことったらありゃあしない。これならみなと未来線に乗り換えればよかったと後悔しながら、開演直前にホールに到着。浴衣着のおかげで500円分の金券をいただく(仲入りの時に、この券でくじを引いたら、談春手ぬぐいが当たった)。
客席に着くと同時に春太登場。初めて聴いたがなかなかいい。今年春に入門したばかりとは思えないしっかりとしたしゃべりで、談春のスパルタ教育でどう伸びていくか楽しみである。

さて談春一席目。表向き「粗忽の使者」をやったことになっている。ブログやmixiに本当の演目を「書かないように」としつこいくらい言っていたので、半分尊重した。見つけたら「刺客を送る」らしいが、それは当方望むところなので、半分バラしておく。というわけで、この一席は志ん朝へのオマージュである。
だけど、今の時代に「これはあの人の噺だから」という遠慮は要るのかね? これが「火焔太鼓」あたりなら分かるが(最近では火焔太鼓だって怪しいものだが)、茶碗の噺は今じゃ古今亭以外の噺家だって相当多くが演っている。「談春七夜」を「志ん朝ごっこ」と言った談春にしては、随分と遠慮深いことである。とは言いながら、こうした談春のスタンスには共感する。自分が演る以上、単に破綻なく演るではガマンできず、その噺を演る必然性とオリジナリティーを求めるこの人らしい言葉である。「今の落語家で談志と志ん朝に影響を受けてないなんてことがあるのか」と言う談春。その志ん朝が見事に演じた茶碗の噺を、テクニックにおいて到底及ぶべくもない落語家が何にも考えずに演ることを彼の美学は許さないのだろう。
祭りということで特別に掛けた茶碗の噺は軽くて楽しかった。談春七夜で一番志ん朝を彷彿とさせたのは「夢金」だった。だが、その夢金も真冬の大川の寒さと浪人者の凄みを強調することで、志ん朝のとはかなり異なる肌触りになっていた。茶碗の噺にはそうした意図は感じられず、演ってみたかった志ん朝の噺を素直に演ってみたという感じ。談春のヒリヒリした緊張感をたたえた高座は聴いていてとても充足感があるが、こういうリラックスした高座もいい。共犯者になったような気分が味わえた。茶碗の噺は「もう演らない」らしい。その意味でも、いいものを聴けた。
二席目「蒟蒻問答」は小さんオマージュ。阿佐田哲也の文体は真似をしてみたくなる魅力を持つが、真似をしてモノになった人はいない(By福田和也)。小さんの落語はこれと同じであるという解説になるほどと納得する。たしかにあのぶっきらぼうでぼそぼそとした語り口を他の落語家が真似ても絶対にウケないだろう。
小さん直伝の蒟蒻問答は、八五郎寺男権助の軽さがいい。住職になった八五郎権助の怠惰で破戒な日々がとっても楽しそうで、それゆえ突然やってくる修行僧は、2人の誰に迷惑をかけるでもない充足した暮らしを邪魔する気の利かない敵役として映る。これだから原理主義者は困る、と思わせる。
蒟蒻屋主人の六兵衛の造形は小さんに及ばない。と言うか、小さんが演じる兄貴分というのは、ぶっきらぼうな語り口が存分に生かされ何とも魅力的な人物になる。これは先の「まねできない文体」のようなものだろう。

談志と志ん朝の比較から小さん論も交えて、談春の落語への愛情を感じさせた夏祭り。軽くてふわふわと楽しい落語会でした。