米朝一門会

麻生市民館にて

桂吉之丞 「動物園の虎」
桂吉弥  「ふぐ鍋」
桂米左  「七段目」
桂米朝  「夏の医者」
仲入り
桂九雀  「御公家女房」
桂南光  「皿屋敷

ナマ米朝はたぶん7年か8年ぶり。最近の衰えについてはいろいろと聞いていたが、この機会を逃せばきっと後悔するに違いないと思っていた。チケットをご手配くださったsantosさん、本当にありがとう。

さて、米朝。早くも枕で話題が循環しだす。同じ言葉、同じ表現が繰り返され、そのたびに客席から笑いが起こるのが正直悲しかった。もちろんあれは意図的なボケなどではない。声も出ていなかった。

でも、感激した。米朝が20メートル先の高座にいる。そしてしゃべっている。その瞬間に立ち会えることに震えた。

枕から本編へ入ると「循環」はなくなり、安心して噺の世界に入れた。思考と反射神経を要する枕とは異なり、噺は米朝にとってもう自動的な作業なのかもしれない。確かに声に張りはなくなっていたが、「夏の医者」ののんびりとした時間が流れる噺の世界には、あの声とスピードがとてもよく合っていた。

患者の息子と医者が往診の途上、うわばみに呑まれるというこの噺は、普通はナンセンスな滑稽噺だが、82歳の米朝が語ることで光景が変わった。死に直面した父親を救ってもらうべく往診を急かす息子と、生き死にの運命に逆らえるものではないと達観しているように見える医者。二人の造形は、うわばみの腹の中でも、あわてるばかりの息子と、ナニ何とかなるわいと煙草をすう余裕を見せる医者という形で一貫している。噺を聴いているうちにいつしか、医者と米朝が完全に重なった。では、息子は誰か。今の米朝にとって、世間と世間の人々はすべてこの息子のごとく見えるのかもしれない。

82歳の米朝だからできる奥の深い「夏の医者」。この芸を目撃できた幸福をかみしめている。

他の面々もそれぞれにいい高座だった。