第二回黒談春 

紀伊国屋ホール

立川談春  「花見の仇討ち」
仲入り  
立川談春  「百年目」

ダルメシアンの着ぐるみ姿でコロ談春登場。談志師匠お気に入りの縫いぐるみライ坊の話をひとくさり。en-taxiにエッセイで20年も前のライ坊いじめが師匠に発覚。「志らくがやったのか」「いえそういうことでは」「じゃあお前か」「いえ」。あやうく破門になりそうだったというから恐ろしい。コロ談春は「泣き言を言いたくなった時に出てくる」そうだが、確かに愚痴りたくもなるでしょう。

談春落語の魅力の1つは人物の造形にあると感じている。夢金の浪人しかり、文七の佐野槌の女将しかり。そうした大ネタじゃなくても、棒鱈の田舎侍のような人物もしっかり談春流の味付けがある。鉄火な職人もおばあさんも田舎者も、確かにそこに人間がいるという実感を伴っている。

そこで「百年目」。談春が番頭に自分なり命を吹き込もうとしたことはマクラや終演後の本人の弁でも分かる。だが、聴き終えて感じたのは旦那の方にあるより大きな可能性だった。米朝の「百年目」の旦那には腹黒いまでのしたたかさがある。同じような問題に10回遭遇すれば、10回とも同一の「正解」を出してきそうな揺ぎなさとでもいうか。談春の旦那はそこまで「固まって」いない感じがした。旦那もまた迷っていたように見えたのだ。それが良かった。
米朝の旦那の造形は揺ぎないという点においてほとんど完璧であり、そして米朝の「百年目」を聴く客は、毎回その完璧さを期待し、裏切られることがなかった。その意味では予定調和である。落語という筋が決まった話芸にわざわざ「予定調和」などという言葉を持ち出すのは可笑しいが、米朝の「百年目」にはこの言葉がぴったりくる。客は大きな期待を抱いて米朝の「百年目」を聴き、期待通りの芸を安心して楽しめた。
談春の旦那は米朝のそれと比べると、旦那業の経験値が低く映った。迷いや揺らぎがある。それゆえに、この旦那はどこまで番頭という人物を理解し(米朝旦那は番頭を見切っているはずだ)、どうやって番頭を得心させるのか(米朝旦那には朝飯前だろう)、という興味が沸く。意図せざることだろうし、談春の年齢から言っても、この旦那を完成した人物として描けば嘘ばかりが目立つだろう。
談春は、自分が分からないものには無理して入っていかないという演り方をすることがある。ネタおろしの「百年目」も、力点を番頭に置き、旦那にはまだいくつもの留保をつけておいたのかもしれない。それが高座に緊張を与えた。予定調和とは逆の、古典落語でありながら「どうなるのか」という興味を抱かせるちょっと不思議な体験だった。