立川談笑独演会

国立演芸場にて

立川談笑  饅頭こわい
柳家喬太郎 擬宝珠
仲入り
立川談笑  文七元結


 うーん、あの文七は分からない。談笑がやる古典の思い切った改変は嫌いでない。というか、かなり自分の好みに合っている。たとえば、「片棒」の凄さ。ハチャメチャでブラックで現代性があって、それでもって徹底的に笑える噺に作り変えるセンスは大したものである。

 なのに、あの文七は? 
 変えようという意図は分かる。近江屋の旦那と番頭が文七に吉原の店の名前を思い出させる場面は、確かに考えようによっては変だ。身投げをしようとしていた文七に、娘の名前も店の名前も聞き覚える余裕なんかないだろう。談笑が演ったように、吉原の大店を1軒1軒訪ねて、「こんな娘がいないか」と聞く方がリアリティはある。江戸で一二を争う鼈甲問屋の主人や番頭の知恵としても、そちらの方が「正解」だろう。だが、こう変えることでオリジナルの演出にある、堅物ぶっていた番頭が実は大の吉原通という笑いの場面を削る結果になってしまった。番頭が「佐野槌じゃないのか」と聞くことで新しいクスグリを作ってはいたが、あの場面を楽屋落ち程度にしてしまうのはもったいない。噺を変えることで得たリアリティが、笑いを減らしては逆効果ではないだろうか。
 
 冒頭の長兵衛帰宅の場面において夫婦喧嘩を削ったこと、お久が身投げをしようとしていたところに佐野槌の女将が通りがかって助けたというストーリーへの改変、文七が水戸屋敷で碁に熱中していたという話の削除、長兵衛が文七に金をやるべきかどうかで逡巡する場面の改変。いくつもの独自の演出があったが、それによって何かがよくなったかと言えば首を傾げざるを得ない。長兵衛まで身投げをしそうになる場面があり、3人の身投げ未遂という「伏線」で新しいサゲに結びつけるのかとも思ったが、そういうわけでもなかった。

 どだい文七元結は不自然な噺であり、出来すぎな噺だとも言える。だから、多くの演者は話芸の部分で、その不自然さを感じさせない努力をする(というか不自然さを忘れさせるだけの聴き所を作ろうとする)。聴き所を少々「臭い」くらい演ってようやく、噺が持つ弱点を隠すことができる。談笑の工夫は残念ながら、そうした聴き所を薄めてしまい、それに変わる笑いも生み出せなかったように思う。

 もう一つ気になったのが声の小ささだ。CDでも声を抑えている時と張り上げている時の差が大きすぎて、ちょうどいい音量が得難いと思っていたが、この日は声を抑えすぎて聞き取り難い場面が結構あった。その点、喬太郎は病人を演じている時は病人らしい小声なのにしっかり聞き取れた。談笑の声は少しくぐもるところはあるが、もともと聞き取りにくい声ではない(リポーターを務めるくらいだもの)はずだから、やはり声を抑える場面で抑えすぎのきらいがあるのかな?

 いろいろと文句を書いてしまったが、これからどんどん手を入れて文七も談笑流の改作を完成してほしいと思う。爆笑、不条理、現代的な方向で生まれ変わった文七に期待する。