志の輔らくご in PARCO

パルコ劇場にて


志の輔 「七福神の新年会 」
志の輔 「メルシーひな祭り」
仲入り
志の輔 「中村仲蔵


七福神が、新年会の余興に悩む無芸なサラリーマンを助ける「七福神の新年会」。認知度が下がり、ピンで商売のできない七福神たちが、人気回復のために人助けに乗り出す発想が面白い。落語の中に手品が入るという演出も斬新。七福神のうち、実際に活躍するのは三人の神様だけで、今後いくらでも膨らませられそうな噺である。

「メルシーひな祭り」は好みに合わなかった。無邪気で温かい庶民の言動によって杓子定規な役人が変わって行くという構図は「歓喜の歌」と同じだが、最後に商店街の人々がおひな様に扮するというエンディングは童話チックで、「歓喜の歌」よりも甘ったるさを感じてしまった。
優れた頭師の作るかしらであれば、たとえ一体の人形になっていなくても、何かしら訴える力を持っているはずだ。そもそも大使夫人は雑誌で見た雛人形の表情に感動して、わざわざ訪れたのだから、ひな人形の顔を作るというなかなか見られない機会を提供してやればいい。娘だってきっと喜ぶ。役人も商店街の連中も何でそう考えない? 頭師だってそうだ。「俺の仕事だ、さあ見てみろ」というのが本当ではないか。そんなことをずっと考えていたせいで、ストーリーに素直に入り込めなかった。

「仲蔵」は志の輔らしく、いろんなものを足して足して大きく膨らんだ噺だった。「申し上げます」のくだりは多くの演者がやるが、「鎌髭」のくだりを入れるのは初めて聴いた。団十郎が仲蔵の才能を確信するこのくだりは、今回の志の輔版仲蔵には欠かせないだろう。それくらい、団十郎を仲蔵の支援者としてブレない描き方をしていた。
仲蔵の工夫を芝居仕立てで丹念に描いたところは情景がありありと浮かぶ熱演。芝居を見た客たちが、帰宅後知人たちにいかに凄かったかを語る場面も、彼らの感動がよく伝わってきた。そのおかげで、客席が静まり返った理由が納得できる形になった。サゲもオリジナルより優れていると思う。
惜しむらくは蕎麦屋の場面。定九郎の原型となる浪人があまりカッコよくない。汗臭くがさつな浪人者という印象で、放蕩の末に身を持ち崩した家老の息子という感じではない。これは志の輔の声の質によるところも大きいかもしれない。
志の輔版仲蔵は「同業者たちの嫉妬」というモチーフを加えていた。斧定九郎を大幅に変えて後世に残る型を作った仲蔵に、古典落語の大ネタを改変し今に通じる現代性を取り入れてきた自分を重ね合わせているような気がしてならない。志の輔も同業者からの嫉妬、誹謗、無視などに直面してきたことはまず間違いない。仲蔵を演っている志の輔はとても楽しそうだった。