柳家喬太郎独演会

紀伊國屋ホールにて

柳家さん若 「野ざらし
柳家喬太郎 「井戸の茶碗
仲入り
三増紋之助 曲独楽
柳家喬太郎 「子別れ」

開口一番のさん若は「野ざらし」を30分。替わって出てきた喬太郎に「いい度胸をしている」「あるいはKY」と言われるのも無理はない、サゲまでたっぷりの「野ざらし」でした。
さん若、以前、なかのzeroで聴いた時と比べるとずいぶん良くなっていたのだが、分かりにくくてほとんど演り手のいない「馬の骨だったか」のサゲをまで伸ばす必要はないでしょう。キャリア5年の二ツ目としては、高座に安定感はあるのだが、39歳という年齢を考えると「馬の骨」のサゲには疑問を感じる。キャリアの浅さを思えば、教わった噺をきちんとモノにしていく段階とも言えるが、同世代の落語家が噺を現代に伝えていくために払っている努力を思うと、「馬の骨」では周回遅れでしょう。喬太郎の二席、とりわけ「子別れ」が衝撃的だったせいで余計にそう感じてしまう。加えて、語尾の「ね」も気になった。特にマクラではことごとく語尾に「ね」が付き、しかも「ねぇー」に近いほど伸ばすものだから耳障りで仕方ない。注意してあげる人はいないのか?

井戸の茶碗」。あまり変えようがなさそうなこの噺に喬太郎らしい笑いを加えてなかなか結構でした。まず感心したのが高木佐久左衛門と中間の良助の演じ分け。細川屋敷の長屋下を通る屑屋たちを検分する場面、他の演者で、検分役を務めているが高木なのだか良助なのだかよく分からないということが多かった。「それが顔か」「お前ではない。向こうへ行け」という物言いは江戸勤番武士にしてはくだけ過ぎているし、かと言って中間にしては居丈高すぎる気もする。喬太郎はこの場面、屑屋の面体をネタに笑いを取るという目的を果たしつつ、高木は鷹揚に、良助は乱暴にとはっきり話し方を変えて演じ分けていた。ちょっとしたことだが、こうした細やかな心配りはいかにも喬太郎らしい。細川屋敷の前では清兵衛が売り声を上げてしまう場面も、「黙って通れ」という仲間の忠告にもかかわらず、いつもの習慣で思わず「屑ぃ」と言ってしまうという当たり前の演り方ではない。しばらくは忠告を守っていたが、生来の正直がこの欺瞞に耐えられなくなって、高木の長屋に向かって半泣きで「屑ぃ」と叫んでしまう。このシュールさは好きだなぁ。
千代田卜斎から譲り受けた茶碗を細川公にお見せするに当たって、高木は桐の箱には入れるが、茶碗を磨きはしなかった。これはサゲにつながる部分だけに磨いた方がいいと思うのだが、入れ忘れだろうか。「磨くのはよそう。またカネが出るといけない」というサゲの「出る」を厳密に考えると、仏像の時は確かに磨いていて50両が「出てきた」が、茶碗は300両が「出た」わけではない。仮に、そこまで気にして喬太郎が茶碗を磨かなかったのだとしたら、何とまあ繊細なことか。

仲入り後、いつもと寸分たがわぬ構成でいつも通りしっかり客席を暖めた紋之助に続いて喬太郎再登場。その「子別れ」の新しさについては、断片的に聞いて(読んで)いたが、今回初めて実物に巡りあえました。
いやはや驚きました。新しいとか何とかではなく、喬太郎古典落語の可能性を示してくれたように思う。1月に聞いた談春「子別れ」にも「落語はどこまで深くなるのか」と感じたわけだが、喬太郎「子別れ」はよりエンタテインメントの色を強めたうえで「深い」のであります。
吉原に三日居続けした熊五郎の帰宅、そして夫婦喧嘩から噺は始まる。ここで登場する息子・亀が既にして当たり前の「子別れ」じゃないなと予感させる。大人びたというより、生意気この上ないませガキぶり。「それでいかがでしたか、吉原は」などというセリフのは禍々しくさえある。「お父っぁん、謝っちまいなよ」なんて間違っても言わない、その冷静さというか第三者ぶりに亀の意地を感じる。熊五郎の酒を飲んではだらしなくなり、喧嘩の絶えない家の状況に、亀は諦観によって対抗していたのではないだろうか。悲しさや怒りを自覚すればそれだけ自分が辛くなる。早く大人になることで、父親のダメな部分を飲み込んでしまえるようになろうとした結果があのませガキぶりなんじゃあないかと思うのだ。
さて、女房を追い出し、吉原の馴染を身請けした(よくそんなカネがあったもんだ)ものの、この女が何もしない。「だってお前さん、何にもしなくていいって言ったじゃない。だから一緒になったのよ」という伏線をしっかり張って、女は何方へか逃げてしまう。そして、親子再会の場面。談春「子別れ」で、親子再会は偶然ではなく番頭が仕組んだのではないかと感じたが、喬太郎ははっきりと番頭の計らいであるという設定になっている。「井戸の茶碗」の細川屋敷前での「屑ぃ」の絶叫といい、喬太郎は予定調和がお嫌いなようだ。
3年ぶりに再会を果たした亀は10歳。生意気はおそろしくパワーアップしている。「苦労しましたから」「母子家庭ですから。誰かのせいで」。ちくちくと痛いところをつく亀は取り付く島がなく、熊五郎の困惑ぶりが伝わってくる。別れた女郎を「やっぱりああいうところの女は…」と腐す熊五郎に「それは違うんじゃありませんか」と言う亀はなかなかの迫力である。亀は父の言葉に自分の(そして巡って、別れた妻の)歓心を買おうとする狡さを敏感に感じたのではないだろうか。亀は「そういうところの人だからダメなんじゃなくって、お父っぁんがそういう人にしちまったんじゃないの」と恐るべきことを言って伏線を回収する。見事と思う一方、やっぱりこれは10歳の子供のセリフじゃないね。喬太郎の新作には風俗嬢やそれに類する女性が出てくるが、いかにも「ああいうところの女」という類型的な人間像にはせず、汚れた中の純情といった風情を盛り込む。だから、あの亀のセリフは喬太郎の風俗嬢観(なんてものがあればだが)の投影なのではないかと考えていたら、余計におかしくなってきた。
笑いながら、亀の世間擦れを考えると帰宅後のシーンをどうするんだろうという不安も頭をもたげてきた。この亀なら、母親に50銭を見つけられてもいいように言い逃れできるだろう。玄翁を振りかざされて「お父っぁんに貰ったんだい」と泣くなんてとても想像できない。と思っていたら、帰宅した亀は開口一番「お父っぁんに会ったよ」「小遣いもらったよ」と、「男と男の約束」を反古にしてしゃべってしまう。僕もその一人だが、会場に居た多く(喬太郎「子別れ」は初めてだが他の演者では聞いたことがある人)は心底驚愕したはずだ。サゲを考えたらこの展開はあり得ない、というか、「子別れ」でこの部分に手をつけるという発想は、落語ファンにとって驚天動地だ。と同時に、その演り方を目にしてしまえばコロンブスの卵で、「そうだよ、それでいいんだよ」と納得できる。あのパワフルな亀の造形を生かし切って生まれる「子別れ」の新しい可能性を前にすれば、玄翁も鎹も瑣事に過ぎない。
大量の鰻を食べて熊五郎に散財させることを「復讐」と位置づける母子の会話には、既に「許し」の予感があって、ここでウルっときてしまった。さあいよいよ鰻屋の場面、どう盛り上げてどうサゲるか。突っ張り続けてきた亀が「二人で食べてもおいしくないんだ。三人でおまんまを食べようよ」と最後に泣き出す演出は良かった。良かったのだが、長屋での母子の会話で一度ウルったためだろう、ここは談春流の「お父っぁん、男だろ」の突っ張り通しの方が風通しがいいように思う。これはまあ趣味の問題。サゲは「今まで通り一緒に」というセリフの不自然さゆえに予想がついてしまうという点で可もなく不可もなし。そのうちもっといいサゲをつくってくれるでしょう。
素晴らしい一席でした。