立川談春 まっくら落語会

赤坂区民センターホール
立川談春 「死神」
仲入り
立川談春 「夢金」

ダイアログ・イン・ザ・ダークの一貫として開催された落語会。客席だけでなく高座の照明も落とした真っ暗な中で落語を演じる(聴く)とどうなるか、という試みである。
演じる方の思いはパンフレットにこう記されている。

暗闇の中で落語を演るということに僕は不安や抵抗を感じません。最終的な仕上げに、いつも僕は真っ暗な部屋で目をつぶって一席演るからです。自分の発する音声を頭の中で風景、情景に交換することができるか否か。
その作業は僕にとって楽しいことです。

聴く方の心配は「寝ちまうんじゃないか」だった。一人暮らしをしていた頃、よく落語のテープを聴きながら寝た。部屋の電気はすべて消して、流すのは志ん生。真っ暗な中で志ん生を聴きながら何百回と眠りについた経験から、条件付けが働いてしまうのではないかと心配していた。かなり寝不足でもあったし。

一席目の死神が始まる。灯りが落ちると見事なまでに真っ暗である。談春は自身がダイアログ・イン・ザ・ダークに参加した経験から、暗闇の中で見えない不安を取り除くためには、思い切って目をつぶってしまうといいと言う。だが、目をつぶればすぐに眠ってしまいそうで、目を明けたまま暗闇に挑む。ところが、ここまで真っ暗だと自分が今目を開いているのか閉じているのかがだんだんと分からなくなってくる。そして心配した通り、主人公が医者として開業したあたりで寝入ってしまう。
いかんいかんと気がついた時には既に、枕元に座っている死神をどう出し抜くかの算段の場面になっていた。わずかな間だが睡眠を取ってすっきりとした頭に今度は、談春の声がものすごい質感を伴って迫ってくる。累計100時間近く聴いてきた人の声なのに、「あれ、こんな表情の声もあるんだ」と感じることしばしば。視覚を奪われて、処理能力を余らせた脳が聴覚情報に集中し始めたのだろうか。
もう一つ気づいたのが、距離感が狂うことだ。僕が座っていたのはホール後部中央の座席。ところが、談春がすぐ近くにいるような感じがする。ホールのように、どこに座っていても似たような音量と音質が得られる環境では、結局のところ視覚情報から距離感を得ていたのだなあと気づかされた。

談春がパンフレットに記した「音声を頭の中で風景、情景に交換すること」について言えば、普通の高座の方が僕には風景・情景が浮かびやすいようだ。二席目の「夢金」は談春七夜での高座が今でも強く印象に残っている。あの高座では、真冬の大川、降りしきる雪の中を凍えながら船を走らせる船頭・熊の姿がありありと浮かんだ。今回の高座でも情景は浮かぶが、あの時ほど鮮烈ではない。想像力が乏しいのか、僕の場合は仕草や表情が加わることで絵は断然広がる(だから、仕草の下手な落語家はとても迷惑である)。
その代わりに、人物の感情や性格については、今回の方がずっと勘が働くというか、様々に想像が頭を駆け巡る。おそらく先に書いた声の表情への感度の高まりと関係しているのだと思うが、船宿の主人にしても、熊にしても、浪人にしても、登場人物のセリフ(の内容ではなく音)から、その人間像がよりクリアに浮かんでくるのだ。談春「夢金」を聴くのはこの日が三度目で、前二回とストーリー展開上の違いはなかったから、この印象の違いは、やはり映像のあるなし、つまり音への集中度合いの違いによって脳内の情報処理プロセスに大きな変化が生じたということなのだろうなあ……などと自分の頭の中で起こっていることをやたらと考えさせられる落語会だった。

いつもは落語を聴くと、どうしてもロジック偏重の評をしてしまうのだが、今回はその気が起きない。これも暗闇効果なのかは分からない。