月例三三独演会

内幸町ホール

柳家三三 「百川」
柳家三三 「紙入れ」
仲入り
柳家三三 「今戸の狐」

「百川」。師匠の小三治の「百川」は大好きな噺の一つ。円生が作り上げた百兵衛の素っ頓狂な可笑しさをスケールアップさせた小三治「百川」を弟子はどう演じるか?
まずは三三らしく綺麗で安定した語りでテンポもよく、気持ちよく聴けた。ただし、この噺は三三の端正な芸が少々災いしている気もした。小三治演じる百兵衛のきめ台詞「う〜ひぇえ」には、その音のだけで爆笑を誘う破壊力があるが、三三の「う〜ひぇえ」は「面白い台詞」にとどまる。魚河岸の若い衆たちの掛け合いの場面も、小三治百川では、気の合った若者たちの和気藹々とした酒席の雰囲気が背景に立ち上るが、三三百川では、ストーリーを無難に進行させているという感じが強かった。

「紙入れ」も綺麗な一席。「紙入れ」で綺麗というのも妙だが、いやらしさを抑えてここまで聴かせるのだから大したものである。

「今戸の狐」。これまた志ん朝で大好きな噺。符牒のあれこれを語るマクラは志ん朝で聴いたものと大筋は同じ。途中で寄席のワリ(給金)の割り方を紹介するという構成も、志ん朝のものと同じである。馬生や志ん生など古い録音の「今戸の狐」を聴くと、可楽の家でチャリンチャリンと金を勘定する場面は、前座たちが籤の売り上げを数えているという設定になっており、前座が寄席で籤を売る場面も演じている。この場面をワリの勘定に変えたのは志の朝だろうか。この方が確かにすっきりしている。「八丁荒らし」の可楽に町内の博徒がゆすりに来る場面もこの方が生きる。
ただし問題が一つある。どうやってワリを割るかという説明は志ん朝であれば、親父がやっていたことを紹介するという形を取ることで、可楽宅での出来事を自身の体験に基づいて語ることができる。つまり噺と説明の間の断絶を小さくできるのだが、自身ではもうワリを割ることがない今の落語家がその方法を説明するとこれはもうシステム論に終始してしまう。もちろん、それは落語家の生活に興味がある者には興味深い話ではあるが、「噺」の腰を折る印象が強いのも事実だ。
この演目はサゲを理解してもらうために、「骨の賽」の意味とサイコロ博打の「きつね」の説明をマクラで仕込んでおかなければならない。そうした仕込みに加えてワリの説明を噺の中に入れると、どうしても説明過多になる。とてもよくできた噺なのだが、説明なしには通じないというとても惜しい噺でもある。
そうした説明をかったるく感じさせないで聴かせられるかどうかが演者の腕の見せ所だろう。三三の「今戸の狐」は本筋の部分は実にテンポよく聴かせてくれたが、説明部分にもっとオリジナリティーと新鮮な驚きがほしいと感じた。これがいかに難題かは分かっているが、三三への期待が高いだけに、多くを望みたいと思う。