志らく百席

横浜にぎわい座にて


立川志ら乃 「道灌」
立川志らく 「黄金の大黒」
立川志らく 「愛宕山
仲入り
マギー審司 マジック
立川志らく 「浜野矩随」


「浜野」なんて噺、本当は志らくの好みじゃないだろう。ストーリーは予定調和だし、後味は良くないし、笑いも少ない。そんな噺が大ネタ中の大ネタと言われ、これを演れれば人情噺の演者として一流みたいな認識のされ方をしていることも、志らくの落語観と相容れないはず。だから、志らくが「浜野」をよく演るというのは、何かしらの「裏」があると思わずにいられない。
今日の高座でなんとなく分かった気がした。勝手な想像だが、志らくの心中は、「こんなご都合主義的で突っ込みどころ満載な噺を何の工夫もなくそのまんま演る落語家は馬鹿だ。それを必要以上に有難がる落語ファンも馬鹿だ。俺様がたくさん笑えてしかも納得のいく噺に変えてやるから比べてみな」ってなもんではないだろうか。

その意味で、こんなに笑いの多い「浜野」は初めて聴いた。納得感もあった。もともと矩随には、常人離れした発想や創意が備わっていたとする演出は、これまでの「浜野」に感じた下手クソが急に名人に変わる不自然さを払拭してくれた。志らくらしい「浜野」になっていたと思う。

逆に、「愛宕山」は速いだけという感想。中心となるテーマの希薄な噺だけにどうしても、志ん朝の「愛宕山」の見事な人物&情景の描写テクニックと比較してしまう。幇間一八が山を登りながらヘトヘトになっていく様子、小判を投げる旦那の横で苛苛する様子、唐傘を手に谷底に飛び降りようか逡巡する様子など、多くの場面で演じ足りないというか、もっと丁寧に描写してほしいという不満が残る。速さは志らくの持ち味だが、「愛宕山」では逆効果。新しい解釈が入っているふうでもなく、「浜野」とは違ってなんでこの噺をやろうとしたのか意図が分からなかった。