立川談春独演会

銀座ブロッサム中央会館
立川談春 「子別れ 上・中」
仲入り
立川談春 「子別れ 下」

通しで「子別れ」をたっぷりと。

上の「強飯の女郎買い」から中の「子別れ」までは以前に談春で聴いている。その時、感じたのが冒頭の紙屑屋との会話場面はあれほどたっぷりやらなければいけないような聴かせどころなのかという疑問だった。面白くないわけではない。陽気に紙屑屋をからかう熊五郎の描写はいかにも談春らしい世慣れて遊び上手な人物像になっている。ただし、紙屑屋はその後のストーリーにからんでくるわけではないし、爆笑を生む場面でもない。どちらかというと必要なダレ場の印象だった。それが冒頭に来るだけに、もう少しあっさりと処理してもいいのではないかと感じていたのだが、今回は以前にも増してたっぷり時間をかけていた。こうなると演者の意図を考えざるをえない。どういう狙いなんだろうと思いながら聴き続けながら、これかもしれないと感じたのが夫婦別れの場面である。以下はあまり自信のない推測だが、取り合えず今のところはこれ以外思いつかない。
芝浜の熊五郎の酒と子別れの熊五郎の酒は相当に違うのではないか。芝浜を演る時に談春は「人間は変わらない」という立場を取る。芝浜の熊五郎は何かに目覚めて改心したのではなく、にっちもさっちもいかない状況になって遮二無二働くしかなくなった。根が単純な男だけに働き始めれば、眼前の仕事に集中できる。3年間での状況の好転はむしろ内向きを任された女房の手柄だろう。芝浜熊五郎の酒は、飲むと仕事に行くのが面倒になるという、ある意味とても分かりやすい癖の悪さだ。
子別れ熊五郎はもう少し世の中の垢を身にまとっている気がする。それを匂わせておこうというのがたっぷりな冒頭場面に込めた意図なのではないか。陽気にからかうと書いたが、いつもの談春の明るい哄笑が陽気な印象を与えるだけで、見栄の場所で屑屋の職業をネタに繰り返しからかう会話の内容はわずかながら底意地の悪さを感じさせる。酒によって悪意を押さえられなくなるとしても、表面的な会話の流れは陽気で嫌味なくできるところに子別れ熊五郎の世間ずれがある。そう思わざるを得ないのが夫婦別れの場面である。「なんで三日も四日も帰ってこないんだ」と問われた熊五郎が、独身時代に贔屓にした品川の馴染と吉原の店で出くわして、こんなことがあってあんなことがあってと説明する場面。笑いの取れる場面ではあるが、数ある落語の中でもかなり残酷なシーンだろう。ごまかしよういくらでもある。当時の時代背景でも、仮に仲間と吉原に行ったまでは認めても、一晩泊まってその後は…と作り話はできたはずで、家への帰り道それを考えないはずはない。ところが、昔の女との数日にわたる秘め事を得意気に開陳してしまう。どう考えても尋常ではない。家に戻る直前に景気づけに飲んだ酒がここでも、熊五郎の中にある底意地の悪さを刺激する。うるせぇ女だ、じゃあ言ってやらあ。その複線が冒頭場面なのではないか、というのがこの日の「子別れ」前半で感じたこと。
なんで落語でここまで考えなきゃならないのというボヤキは後半になって一段と大きくなる。まず熊五郎と亀の再会シーンだ。「子は鎹」を談春で聴くのは初めてなので、いつもこういう演出をしているのかどうか分からないが、多くの演者が演るように番頭さんが亀を見つけるのではなく、路地から駆け出してきた亀が出会い頭に番頭とぶつかり、親子が再会する。ここでまた疑念が沸く。これって、亀と番頭が示し合わせた芝居なのかという疑問だ。もちろん、談春はそんなことを一切言わなかったが、一旦そう思ってしまうと、この前後の場面がそれを匂わせているように感じて仕方ないのだ。
熊五郎と一緒に木場に向かう際、番頭は熊五郎と別れたおみつの話を持ち出す。これは他の演者も皆同じだ。だが、談春はこの場面で番頭に「仮にだよ、おみっつぁんが今も独り身だったらどうする」と言わせている。「世の中の男だって馬鹿じゃない。あの女なら男が放っておきません。もう済んじまったことだ。どうしようもありませんよ」といった内容を言う熊五郎に対して、番頭は「本当にそうかい。私には負け惜しみしか聞こえないねぇ」ともう一押しする。このやりとりはおそらく談春オリジナルだろう。この場面の最中には、番頭にそこまで言わせることはないだろうと感じたのだが、直後に亀にぶつかった番頭は、さほど驚いたふうでもなく「神様はいるってことかね」と言って一人先に木場に向かう。父と母の復縁を願う亀に相談された番頭が、この筋書きを書いたのではないか。木場へ向かう道すがらの会話をあれだけ膨らませたのは、これから起こることがどういう決着を見るか自身も楽しみでならないゆえの番頭の饒舌ではないかと感じたのだ。そう考えると、二人の会話場面の発端部分で、吉原の女を家に入れて仕事がおぼつかなくなり信用を失った熊五郎を一人支えてくれたのがこの番頭であり、「今日あるのも番頭さんのおかげ」と熊五郎に言わせているのも(他の演者では聴いたことのないセリフだ)伏線に思えてくる。離縁前から熊五郎の一番の理解者だったのがこの番頭であり、亀が相談する相手として誰よりも相応しい相手であることを示しているのではないか。
もう一つの難問が亀が熊五郎からもらった小遣いで買った「青鉛筆」とそれを使って書いた「空の絵」という道具立てだ。師匠談志が「子別れ」の中に導入した「青鉛筆」というモチーフを談春なりの解釈で膨らませたのが「空の絵」であり、青い空こそが亀にとって父と過ごした日々の風景であるとする演出だ。この叙情性は臭すぎるところまで行ってしまっているのではないかと正直感じた。演者はそんなことなど先刻承知のはずで、そのリスクを冒してまで新しい何を生もうとしたのか? ここは保留というか宿題。
ダラダラと書いたが、次に聴けばまるで違った感想を抱く可能性は高いと思う。それは別にいい。それよりも、談春がその典型だろうが、落語を聴くのも(良い意味で)楽じゃないと思う高座がほんとうに増えているように感じる。落語の長い歴史の中でもかなり凄い時代なのではなかろうか。